二十歳過ぎに読んだ彼の書を今、再度紐解いて、まさに頭を垂れ今の自分を反省し、これからの道を自分の全使命をもって全うしようと決意しなおしました。
私は「仙人」と人間との間を揺れ迷いながら、オペラ活動で何をすればいいのか考え続けたのですが、今こんなに謙虚な気持ちになれたことは嬉しくてなりません。
彼の言葉を書き連ねてみたくなりました。
まず、戯曲「出家とその弟子」。
老いた親鸞が、周りの人々の苦悩をどう受け止めて解決してゆこうとしたかを描いた戯曲ですが、「ジャン・クリストフ(ベートーベン)」を書いて有名なロマン・ローランが絶賛したものです。
===第2幕から
唯円(親鸞の若い実直な愛弟子):私はこの頃何だか淋しい気がしてならないのです。今日も此処に立って通る人を見ていたらひとりでに涙が出てきました。あなたは淋しくはありませんか。
親鸞:私は一生涯淋しいのだろうと思っている。尤も今の私の淋しさはお前の淋しさ
とは違うがね。お前の淋しさは対象によって癒やされる淋しさだが、私の淋しさはも
う何物でも癒やされない淋しさだ。
このことは僕が二十歳の頃、友人と語り合ったことを思い出します。
唯円:恋は罪の一つで御座いましょうか。
親鸞:この世では罪をつくらずに恋をすることは出来ないのだ。しかし真面目にこの恋という関所にぶつかれば人間は運命を知る。愛を知る。
いたずらな浮いた心でこの関所に向かえば、人は盲目になり、ぐうたらになる。恋するとき人間の心は不思議に純になるのだ。人生のかなしみが解るのだ。
親鸞:偽善者は人殺しよりも仏に遠い。小善根を積んで己の悪を認めぬ偽善者の方が仏の愛にはもれているのだ。
親鸞:そのさまざまの学問は極楽参りの邪魔にこそなれ助けにはなりません。人を愛しなさい。許しなさい。かなしみを耐え忍びなさい。業の催しに苦しみなさい。運命を直視しなさい。その時人生のさまざまの事象を見る眼が濡れて来ます。仏様の慈悲が有り難く心に沁むようになります。南無阿弥陀仏がしっくりと心にはまります。それが本当の学問と申すものじゃ。
訪問者:その念仏をして浄土に生まれるというのは何か証拠があるのですか。
親鸞:証拠を求むるなら信じているのではありません。私は何もかもお任せするのじゃ。私の希望、いのち、私そのものを仏様に預けるのじゃ。
===第3幕から
善鸞(親鸞の放蕩息子):私はずい分ひどく汚れています。とても罰なくして赦されるような身ではありません。それは虫が良すぎます。私は卑しくても、このような汚い罪を犯しながらそのまま助けてくれと願う程あつかましくはなっていないのです。
それがせめてもの良心です。私の誇りです。
唯円:お師匠様が私に常々おっしゃるるには、「苦しい目に遭ったとき、その罪が自分に見出されない時は不合理な、怨めしい気持ちがするものだ。その時にその怨みを仏様に向けたくなるものだ。其処を堪えよ。その時にその忍耐から信心が生まれる」とおっしゃいました。私達が墓場に入るとき、その不合理の中に仏様の深い愛がこもっていることが解り、仏様を怨んだことを恥じるのではないでしょうか。人間の智慧と仏様の智慧は違うのではありますまいか。
善鸞:あなたの言葉は単純でもまっすぐです。幼くても智慧が光っています。私は鞭打たれるような気が致します。素直なまともな心を恢復したい。
唯円:あなたは仏の子だと信じます。自分の本当の願いを殺すのは一番深い罪だと聞いています。お父様とは逢いたくないのですか。
善鸞:逢いたくても逢えないのです。
唯円:それは世の中の頑なな無数の人々の、意思の力が私の寺の中をも支配しているからですね。ああどうして世の中はもっと情けを知らぬのでしょう。己の硬い心が他人を苦しめていることに気がつかぬのでしょう。
唯円:世の中は若い私たちの考えているようなものではないのでしょうね。
親鸞:「若さ」のつくり出す間違いが沢山あるね。しかし若い時には若い心で生きて行くより無いのだ。若さを振り翳して運命に向かうのだよ。純な青年時代を過ごさない人は深い老年期を持つことも出来ないのだ。
唯円:善鸞さまはまったく淋しそうでした。酔いのさめかけた善鸞さまは実に不幸そうに見えました。
親鸞:人生の淋しさは酒や女で癒やされるような浅いものではないからな。多くの弱い人は淋しい時に酒と女に行く。そして益々淋しくされる。魂を荒される。
唯円:善鸞様は、「私のような汚れたものには難行苦行が似つかわしい」とおっしゃいました。
親鸞:罰を受けたいというのは甘えている。地獄の火の恐ろしさを侮っている。
指一本焼ける苦痛でもとても耐え切れるものではないのだ。
唯円:善鸞様に遭ってあげてください。あなたのお子と思わずに、隣人として、赤の他人と思ってーーーー
親鸞:お前はさっき私が他人に優しく我が子に厳しいと言ったね。それは私が我が子ばかり愛して、他人を愛することが出来ないからだ。私は善鸞を愛している。しかし私は善鸞が犯した罪のために彼を呪っている人々の事を思わずにいられない。あの子も仏子であるからには仏様が守ってくださることを祈るだけだ。
===第4幕から
かえで(遊女で唯円の恋人):親鸞様は坊様は恋をしてはいけないとはおっしゃらないのですって。遊女だからといって軽蔑はなさらないのですって。
浅香(遊女で善鸞の恋人):二人の心さえしっかりしていればきっと成就すると思うわ。辛抱が第一よ。善鸞様がいつも云っていらっしゃたっけ。「義理を立て貫く覚悟
がない時には、なまなか義理を立てようとすると却って後で他人に迷惑を掛けるようなことになる」って。けれど優しい人はそうは行かないのね。初めは義理にからまれるし。後には淋しさに堪えられないし。あの人は本当に不幸な人だ。あなたはまけてはいけませんよ。
浅香:(火鉢の灰を火箸でならしつつ)ああ、火もいつの間にやら消えたそうな。私の心は丁度この灰のようなものだ。もう若い情熱もなくなった。かえでさんのような恋はとても出来ない。自分の不幸を泣く涙も涸れて来た。訴える心も段々無くなって行く。何の望みもない。と云って死ぬる事も出来ない。ただ習慣で何の気乗りもなしにして来た事をつづけて行くだけだ。何が残っている、何が。ただ苦痛を忍び受ける心と、老いと死と、そしてそのさきはーーー。ああ何もわからない。あんまり淋しすぎる。たれかがたすけてくれそうなものだ、本当に誰かがーーーー。
===第5幕から
永蓮(親鸞の一番弟子):遊女とどうしても付き合うと言う唯円殿とは同じ寺にいることは出来ません。私がこの寺を出るか、唯円殿が出るか、どちらかです。
親鸞:私が悪いのだよ。お前達が唯円を非難するのを聞きながら、私の罪を責められるような気がした。私は唯円に「若し恋するなら真面目一すじにやれ」と云って置いた。私はおだてたようなものだ。その私がどうして彼を裁くことが出来よう。
永蓮:あなたのようにおっしゃれば何もかも皆自分の責になってしまいます。
親鸞:大抵のことは、よくしらべてみると自分に責のあるものだよ。「三界に一人の罪人でもあれば悉く自分の責である。」とおっしゃった聖者もいる。唯円もたしかに悪い。周囲の平和を乱している。自分の魂の安息を毀している。しかし唯円も寺を出すことはできません。唯円が悪人なら猶更寺から出せないと思うのだ。永蓮、お前とこの寺を初めて興したとき仏様の前に跪いて定めた綱領を覚えているか。
永蓮:私達は悪しき人間である。他人を裁かぬ。でございました。
親鸞:その綱領で決めてくれ。どのような悪を働きかけられても、裁かずに赦さねばいけないのだ。しかし悪を働きかけることが良くないのは、その相手も呪いを持つようになり共に裁きに与らせてしまうからじゃ。お前は唯円を呪わなかったろうか。お前の魂は罪から自由であったろうか。唯円を赦しておやり。
永蓮:はい。ほんに左様で御座います。腹を立てている時より、赦した今の気持ちの方が勝利のような気がします。
唯円:かえでと私は幾たびかたく誓い合ったことでしょう。天地が崩れても二人の恋は変わるまいと。
親鸞:幾千代かけてかわるまいとな。明日をも知らぬ身をもって!そのような誓いは仏の領土を侵すおそろしい間違いだ。ただ祈れ、縁ならば二人を結び給えと。
唯円:もし縁が無かったら?
親鸞:結ばれることはできない。
唯円:私は堪えられません。不合理な気がします。
親鸞:つくり主の計画の中に自分の運命を見出さねばならぬのだ。その心をまかすというのだ。帰依というのだ。
唯円:どのような純な、人間らしい願いでも、「かく定められている」との運命が蹂躙してしまうのでしょうか。
親鸞:其処に祈りがある。願いとさだめを内面的に繋ぐものは祈りだよ。「仏様、み心ならば二人を結び給え」との祈りが仏様の心を動かせばお前たちの運命になるのだ。それを祈りがきかれたというのだ。お前の恋を仏の御心に適うように清めなくてはならない。
唯円:どのような恋が聖い恋で御座いますか。
親鸞:恋人を愛するが故に他人を損なうようにならない恋だ。重病の友の介護をしなければならないとき恋人が会いたいと言って来たらどうするか。会いたさを忍んで友を看護し、後では淋しさに堪えかねて泣いて恋人のために祈るようになるならば聖い恋と云ってもいい。そのとき逢わなかったことは、恋を却って強い、たしかなものにするだろう。
唯円:――――――私のしてきたことは聖い恋の反対でした。
親鸞:恋の中には呪いが含まれているのだ。恋は相手の運命を幸せにするとは限らない。かえではお前をしあわせにしたか。お前はかえでをしあわせにしたか?聖なる恋は恋人を隣人として愛せねばならない。
唯円:縁ならば二人を結びたまえ。
===第6幕から
親鸞:わしはもうこの世を去るーーーー。最後に聞く。お前は仏様を信じるか。
善鸞:わたしの浅ましさーーーー分かりませんーーー決められません。
親鸞:―――――。それでよいのじゃ。みな助かっているのじゃ――――善い、調和した世界じゃ。
以上、「出家とその弟子」から気になったところを書き出して見ました。26歳の倉田氏の作品、皆様の心にも何か響くものがありましたか?
次に、同じく倉田氏の同じ頃の「歌わぬ人」という戯曲集の中に「自分の創作の動機」があり、「パンや名誉心のために筆を執るときは表現のいのちを感ずることの出来ないのは云うまでもない。自分の芸術が輝いて行くに従って、(内面的に云わば、自分の徳が完成して行くに従って)少しずつ心の平和を増して行けるだろう。先には不調和で醜く見えたところに調和と美を発見していけるだろう。それが私の創作の希望である。自分の芸術が自分を救ってくれることを祈っている。」と当然のことながら彼らしく書いてありました。
他にも「病む青年と侍する女」「俊寛」「歌わぬ人」と入っていました。
「歌わぬ人」の内容は、作家であるはずなのに書けない、説教師であるのに説教できない。歌いたいのに歌えない。そんな人の心を描いたものです。
友人:書かないよりは書いた方が誰かを幸せに出来ることもあるのではないか。
主人公:愛と信仰を問題にした書を書こうとしているのに、私はその愛と信仰について本当に知っているのではないのではないか?そう思えてくるのです。そんな未熟な私が一体何を書くのか!?
友人:では一生何も書けないかも知れないぞ。
主人公:そうかも知れない――――。
主人公:ああ、私はこの深い悲しみに打ち克たれてはいけない。不幸に身を任せてはならない。それらを征服して、高い勝利の歌をほがらかに歌い得るまで努力しなくてはいけない。弱い心になって、いたづらに悲歌し哀吟してはならない。それがいかに自分の傷ついた心に甘美な慰めでろうとも!
侍する女:ああ、私が何を申し上げましょう。こうして貴方のお側に坐っていると、私というものが本当に何の役にも立たない、ふつつかなものだということが苦しくなります。でも私にでもあなたのお苦しみの尊いということだけはよく解りますの。私はほんとに何の価値があってあなたの側にいるのでしょう。せめてあなたの身の廻りのお世話だけ―――たとえそれがあなたの尊いお心の問題とは少しも関係がなくても、それがあなたに要るものであるならば、私はそれをまごころ一杯でしていたい。
ああ、私が若くて美しかったら!
主人公:私たちはいつまでも結婚しないで友達か、それとも師と弟子とのようにして一生暮らしたいものだね。師と弟子との愛は恋などよりも、深くて永いものなのだからね。私はお前と一生睦まじく暮らして、死ぬる時にはお前の腕の中で死にたい。自分が淋しいときに側に愛で温めてくれる人があると心は嬉しく濡れてくる。そうだ、いい人たちの生涯を思うと自分の心まで清められる。そうなると皆善い人のような、祝したいような気がするのだ。みんなみんな幸福にくらして下さいという気がするのだ。私は何だかさっきから平和な気持ちがしてきだした。
侍する女:私も何だか嬉しくなって参りましたわ。
主人公:私はなんだか歌える時が来そうな気がしだした。その時は歌うよ。天を向いて!
「愛と認識の出発」も読み直しました。これは随筆集で、あまりに沢山書き出したいことがあり、いつか時間を見つけてからにしましょう。100年近く前に書かれたものですが、二十歳の頃の僕にも、今の僕にも何と心に響くものでしょう。
とにかく、何故私がここまで倉田氏の本を紹介したかったか、お分かりいただける方が一人でもいらっしゃると、本当に救われたような嬉しい気持ちになります。25,6歳の若者達よ。君たちの歳に書かれたものです。古臭い、重すぎる、引いちゃう?
しかし君たちも、年齢を重ねた僕も同じような愚か者です。先輩達が精一杯の気持ちで作った古典を、今抱きとめてみませんか?
現代のすべての皆様、彼のような真摯で愚直ともいえる考え方、生き方、どうでしょう?本を探してみて下さい。ご感想を待ち続けます。 |