オペラ「カルメンー現代に蘇るその夢」

ビゼー/作曲  石多エドワード/演出

 

ちらし


新 演 出 に よ せ て

ビゼーは1838年にパリに生まれ、1875年にカルメンを作曲したが、「こんな不道徳な話を!」と酷評され、失意のうち3ヵ月後に死んだそうだ。
しかしビゼーはこのオペラ「カルメン」で、展望のない燻った世間へ挑戦状を突きつけたかったのではないだろうか?

同じ頃、欧州のキリスト教的道徳文化論に限界を感じ「善悪の彼岸」を書いたニーチェが、ワーグナーと決別し、この「カルメン」を絶賛した理由もその辺にあろう。 このオペラのインパクトの強い音楽への憧憬からか、あるいは一般人が日頃道徳を守らされることへの反動としてカルメンの生き方に惹かれるからか、このオペラは今や世界中で有名になった。

しかし、ビゼーの挑戦は、 自由で純粋な夢を失った人を解放しようという、いわば燻った現代社会への新たな挑戦、と今の私達に映ってくる。
挑戦ではありながら、ビゼーはこのオペラで人々を解放したかったに違いない。
先が見えない不安と闘う現代人が、勇気づけられるオペラでありたい。 私達が「カルメン」と向き合う意味がここに見えてくる。


あ ら す じ


序 曲[プロローグ]

一見長閑な昼下がりの公園。どこにでもありそうな都会の風景。夢を虚しく求める人々のたまり場。そんな様子を見守っているかのように、カルメンの銅像が背後に立っている。

第一幕 第1場 [都会のある公園]

公園の治安を守るための、「兵隊」と呼ばれる男達が時々支援パトロールに来ている。彼等は浮浪者達と一緒になって、街のヒマ人達をバカにして歌うが、自分達だって同じなのだ。
そこにホセの許婚ミカエラが田舎から訪ねてくる。モラレスや隊員たちからミカエラは遊びに誘われるが、スリルを楽しんでは、うまく逃げ去る。キリスト信者で純朴な娘ミカエラも、言い寄る男達をうまくあしらって女性らしく生きる術を知っているのかのよう。
そして隊員達も、街の暇人も、浮浪者も、みんな自分達の軽薄さを確認。
そういう隊員や街の暇人や浮浪者たちを、子供達は平気で乗り越えてゆく。お上の権力を後立てにして威張り散らす、俗悪な官僚の典型である隊長が現れるが、逆に子供達に翻弄される。
夢を失った男たちも恋に憧れる。彼等はそれにしか夢を見られないのか......縋ってくる「可愛いい男達」に、ホステス達(タバコ女工を連想させる)は悟ったように恋の虚しさを歌う。
カルメンは、今までの様子を銅像としてずっと見ていて、この公園に集まる、恋にしか夢をもてない男たちを何とかしたいと思う。 カルメンは再び甦ることを決意。そして高笑いし銅像から降りてきて、人々の中に入る。

カルメンは「ハバネラ」で、恋ばかりにうつつを抜かしては、大事な夢を失うよ、と 明るく警告しているようにも感じられる。しかし、カルメンの孤独を知る者はいない。 自分に振り向かないホセにカルメンは、「ただ言い寄る男達と違って、何か大きな夢を持つ男では......」と興味を持つ。そんなホセなら自分のパートナーとなって「人々を解放する夢」を実現できるのではと期待し、魔法をかけた花を投げつけて去る。 続いてミカエラが登場し、ホセと再会する。
ホセは、公園に集まる人々を助けるために来た筈なのに、彼らを忘れ、故郷の幼馴染ミカエラと一緒になって「自分の周りに小さな幸せを築いて守ろう」とするだけかのようにカルメンには思え、ホセを許せなくなる。
そこでカルメンは、真面目なホセが仲間に入らざるを得なくなる芝居の計画を立てる。マヌエリタとの喧嘩は、そのための芝居だったのか。
カルメンはホセを誘惑することに成功し、仲間に助けられて無法地帯にある酒場へ逃げてゆく。

第一幕 第2場 [リリャスパスティアの酒場] 二ヵ月後

前奏曲。牢獄の中でホセが花を見ながらカルメンを思い浮かべている姿が浮かぶ。

浮浪者や脱サラリーマン、やくざ者、ホステス達の中から、ダンカイロ・レメンダード・フラスキータ・メルセデスなどがカルメンのファンとして生まれ変わる。今や彼等はカルメンを得てこの無法地帯の酒場で生き生きしている。
密談しようとしたところで、エスカミーリョが傍を通りかかる。彼は公園出身の人気スターで、スペインに闘牛(世界サッカー大会でも連想)に行って勝利をおさめ、地元でも盛大な凱旋の祭りが開かれることになっている。

隊長はエスカミーリョを利用して自分の株を上げようとするが無駄だった。彼は自分にある権力で、お上からの支援協力をカルメンに申し出たのだが、カルメンにはそんな権力や、恵まれる支援金など無用なのだ。スーパースターで、ニヒリストでもあるエスカミーリョ。彼は牛との生死を賭けた壮絶な闘い(サッカー試合でもありうるか?)で、青白く冷たい緊張感を身につけている。内心では、ファン心理で近寄る人々を相手にしていない。当然のごとくカルメンとエスカミーリョは互いに興味を持つが、この場はさらりと別れる。
カルメンたちは密輸の相談を楽しんで歌うが、「悪巧みの仕事か恋か」ではなく、「卑近な金儲け仕事か将来の壮大な夢か」とも思える。ホセがカルメンを訪ねてくる。優等生だったホセはどう変わったか?皆は、ホセを何とか仲間にしたい。
ところが、今までの価値観に未だに拘り隊に帰ろうとするホセにカルメンは苛立つ。隊に帰ることは、今の燻った社会に戻り安住すること、とカルメンには思える。二人がケンカ別れしようとしたところに、隊長が戻ってきたため、決闘になりホセは、カルメン達の仲間に入る事になる。これも運命の悪戯か。
みんなは無法地帯や新宿公園から出て、自由を求め新たな世界に向かう決意を高らかに歌う。
それを聞く我々も涙する。

第二幕 第1場 [深い山の中 半年後] 半年後

前奏で、ふるさとの母を懐かしく思うホセと、悲惨な幼い頃を思い出すカルメン。

密輸で大モウケするべく自由を求めて旅立った彼等だが、夢溢れる旅の筈が、現実はそう甘くはない。時は流れても、どこへ行っても、何もできない自分達......。みんな段々疲れて希望を失いかけてゆく。
カルメンも何とかしようとするが、常識に拘るホセが邪魔になる。
みんなはホセにも覚悟を要求する。しかし、励ましあってももう限界、先には進めない。
それを見ていたフラスキータとメルセデスは、皆を元気づけようとカルタ占いを始める。二人とも楽しい夢を歌うが、カルメンが占うと、死を告げられる。それでもカルメンを元気づけようとするフラスキータとメルセデス、二人の優しさが切ない......。

しかし無理にも明るく元気を出して更に進んでいこうとする彼等。痛々しい......。全員そこを去った後、娘から女性へと成長し、幸せな家庭を築こうとホセを連れ戻すため、勇気を持ってこの山に来たミカエラ。私の願うことは正しい筈と、神に助けを求めて歌う。
そこにエスカミーリョがやってきて見張り役のホセと出会い、カルメンの奪い合いで決闘になる。ホセは自暴自棄になり、死を賭してエスカミーリョに向かって挑むが、エスカミーリョに対してはあらゆる点で勝てる筈がない。エスカミーリョは皆を闘牛(サッカー)に招待して去る。
皆が去ろうとしたとき、隠れていたミカエラが見つけられる。ミカエラは自分の全存在をかけ、カルメンからホセを取り返そうとする。ホセはカルメンから離れまいとするが、ミカエラの「お母さんがキトク」という言葉に帰ることを決意して、ミカエラと共に去ってゆく。
しかし、カルメンは自分の兄弟や両親ともっと悲惨な別れ方をしてきたのだろう。
そんなホセに失望するカルメンは、エスカミーリョと共に歩むことを決意し、みんなもホセを見限り、最後の希望を二人の新しい結びつきにかけ、東京の祭りの広場へ向う。

第二幕 第2場 [祭りの広場] 闘牛場(サッカー場)前の公園

前奏曲で全員それぞれの思いを持って、闘牛場前の公園にやってくる。一方ホセは母の死に目に会えず、ミカエラを棄ててカルメンを追う。

みんなは新しい希望を求め、カルメンとエスカミーリョに期待し、公園に戻って、祭りの日に隣で行われる闘牛(サッカーか野球)を見に来る。二人が結ばれて、今度こそ大きな夢が得られると期待する人々......。カルメンもエスカミーリョも救世主なのだ。 華やかな行列の中で、カルメンとエスカミーリョは愛を誓い、エスカミーリョはサッカー場へ。しかし一人残ったカルメンのところに、ホセが来る。
カルメンは死の決意でホセと会う。カルメンはたとえエスカミーリョと組んでも、人々には一時的な夢しか与えられず、やがて同じことの繰り返しで終わることがわかっているのか。
もうこれ以上人々の期待を背負ってはゆけない、この世界から永久に去ろう、と思うカルメンの死は、追い詰められて十字架の死を選ぶキリストの死と似ていないか?
ホセに殺されるのが、カルメンにはせめての償いか?

[エピローグ]

この物語は、ただの俗っぽい恋愛殺傷事件と思っていいのだろうか?
この物語から私たちは何を読み取れるのか?
人々を自由に解放したいという「カルメンの夢」は、虚しい夢だったのか?

死んだカルメンは偶像にされる。人々を自由に解放したい、というカルメンの夢も霧消した。
カルメンを追い求めたホセの人生は何だったのか......。
そして、こんな話は世界のあちこちで生まれては忘れられ、歴史は繰り返すだけ......。

いや、「カルメンの死」を繰り返すのはもうやめたい!
誰かをヒーローやヒロインに祭り上げ、その人に夢を託してぶら下がるのではなく、誰もがそれぞれの夢に旅立とう!私たちは自由なんだ、と歌い上げよう!