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1. 代表顧問ごあいさつ 2. 芸術監督ごあいさつ 3. 公演概要 4. 作曲家プロフィール 5. 台本作者プロフィール 6. 実行委員会構成図 7. 協賛概要 主 催;日比合作オペラ「至福の王者-高山右近」実行委員会 |
代表顧問 ごあいさつ |
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芸術監督 ごあいさつ |
東京オペラ協会はおかげさまで昨年、創立25周年を迎えました。 国際交流をオペラで!と唱え続けた当会は、オペラ「忘れられた少年-天正遣欧少年使節 」では欧州各地で芸術家同志が共演し、日中合作歌劇「蓬莱の国-始皇帝と徐福」では、日中各地で中国国立の中国歌劇舞劇院と共演を続けてオペラによる国際交流を続けております。 日本とフィリピンの交流の歴史はわかっているだけでも500年以上になるでしょうか?この間、実に様々な出来事がございました。 第2次世界大戦の悲惨な経験が、日比交流にあまりに暗い影を投げかけているため、他に数々の交流があったことについては、あまり強い関心を寄せられないでいたようです。 しかし、両国の間には美しい話、愉快な話、いろいろあったこともまた厳然とした事実であります。 私事にわたって恐縮ですが、100年近く前私の祖父は祖母とともに結婚してフィリピンに移民しました。そして父はフィリピンで生まれ育ち、フィリピン人である母は戦時中に日本軍の報道部に勤めていたおりました関係で二人は知り合って結婚したのですが、その頃の両親達の苦労を聞き及んでおりました。そんな中、戦後すぐの1947年フィリピンで胎児となり日本で出生した私は、自分なりに将来は外交官になって日比友好に役立てればと考えておりました。ところが何時の間にか音楽の世界に飛び込んで、オペラの芸術監督として外国の芸術家と様々な合作交流をしている自分の気づき、やはり民間外交官として生きていることに、驚きと感慨を併せ持つこの頃でございます。 400年あまり前の日本は戦国時代、秀吉が武力で日本を統一し、さらに朝鮮、中国へと進出しようとした頃、この高山右近というキリシタン大名は、自分の信ずる道のためその大名という地位を捨てマニラに追放される道を選びました。キリスト教を保護するためには西軍と組んで東軍と戦う道もあったのですが、右近は武力では何も解決しないことを身をもって示します。 アジアでも軍拡への道を歩む国が後をたたない今こそ、彼の生き様をじっくり描くことが大切と考え、日比合作オペラ「至福の王者-高山右近」を創作しようとした次第です。 様々な方々のご協力を得て今回の大事業が進められております。 日比友好、世界平和を心から願う皆様とともに力を合わせてゆきたいと願っております。 東京オペラ協会 芸術監督 石多エドワード |
公 演 概 要 |
日比合作オペラの目的 | オペラを日比合同で製作し、合同で日比巡演することにより、日比友好親善に深いレベルで貢献する。 武力を拒否し続けた高山右近の生き様をオペラで歌い上げることにより、世界平和にも貢献する。 |
オペラのあらすじ | 《第1幕》マニラへの船上 1614年宣教師・キリスト教徒追放令によりマニラに向かう船に高山右近ら一行が乗っている。 右近は、キリストの教えにより自分が変化していった日本での様々な思い出を蘇らせる。 彼のの武将としての成功や、茶人としての名声が大きな噂となる中、秀吉の禁教令の布告。 追放される右近を見守る、さまざまな人々、そして細川ガラシア……… 《第2幕》キリストの国:フィリピン 一行はマニラで大歓迎を受けるが、スペイン人と彼らがもたらしたキリストの教えを受け入れるフィリピン人、その大きな包容力に右近は感動。そして、以前に流れ着いていた日本人たちの様子も描かれる。 いつか殉教を願った右近だったが、すべてを受け入れ最後に幸せに昇天する時、皆に言い遺す。 「ともに日本からマニラに追放された者たちよ。 『剣を取るものはみな、やがて剣で滅びん。』 この地の人々と子孫を作り、いつの日か再び日本に帰りなさい。平和の使者として」と。 右近が示した、自己の信ずる道一筋に全てを捨てて生き抜くこと………、 彼の生き様は、武力に振り回される現代に、何を物語ってくるだろう? |
台 本;永久村二郎(東京オペラ協会 芸術監督) 作 曲;Manuel Perez Maramba (サント・トーマス大学教授) 出 演;東京オペラ協会15名、 サント・トーマス大学35名 各オーディションにより選抜約50名。 歌手30名、演奏者10名、スタッフ(舞台関係者含む)10名 混声合唱・児童合唱も公演地で募集して出演していただく。 音楽は4~500年前の日比両国の民族的音楽を素材として多様するが、万国共通語としてのクラシック音楽が基本の音楽となる。 言葉は英語を基本に作曲されるが、日本語、タガログ語、そしてスペイン語も部分的に使用される。 ※但し、日本巡演は日本語訳にて歌われる。 |
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◎サント・トーマス大学 フィリピンのみならずアジア最古の大学として知られるこの大学は、 学生数3万人の大きな大学として国の内外に知られております。 |
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上演計画(暫定的な計画で、変更の可能性があります) |
2002年 9月中旬 |
日比両国でオーディション | |
10月~ |
日比両国で練習開始 | |
2003年 6月26日27日 |
東京文化会館で初演 | |
8月末 |
フィリピン マニラ公演。 | |
以後、日比両国で巡演を続ける。また、欧州やアメリカなどでも巡演を計画。 |
作曲家プロフィール |
Manuel Perez Maramba(a.k.a Dom
Benildus b.) マヌエル・ペレズ・マランバ(別称;ドン・ベニルドゥス) |
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1936年7月4日マニラ生まれ。 作曲家、ピアニスト、教師。 マランバはベネヂクト派の修道士で、修道士としての名前はドン・ベニリドゥス・マリアという。 銀行家トーマス・マランバ兄を父に、ピアニストであるパシフィカ・ペレズを母に持つ。パシフィカがマランバの最初の音楽教師でもある。 かれはサント・トーマス大学の音楽部の学位を17歳で取得した。その後バルチモアのピイボディー音楽学校に入り、1956年にピアノマスターズクラスの修士号を取得、また1958年には作曲の学位を取得した。続いてイェール大学で音楽芸術学の修士号を取得、また宗教音楽をドイツのレーゲンスブルクの教会音楽学校及びウイーン音楽学校で学ぶ。マランバは哲学学士号と宗教理論とカノン旋法の修士号ももっている。 ピイボディーでマランバは、ピアノをリリアン・グッツマン・アワードに習い、作曲をマリエ・ザッッチャー・アワードに習った。 イェールで彼は、マルタ・クルティス・マイルス奨学金を理論と作曲で得、ルーシー・モーゼス研究奨学金を演奏法で得た。彼はカーネギーホールとスプラーグホールに於ての芸術家協会オーディションで協奏曲作曲で合格した。 かれは19歳の時イェールシンフォニィーオーケストラとカーネギーホールで共演し、またそれは1974年のことで、アメリカ、ニューメキシコ州のサンタフェにある聖ヨハネ大学の在留音楽家であった。マランバは世界での数多くの演奏歴があるが、フィリピンの主要オーケストラとのソロ演奏家としてデビューした。宗教音楽の作曲家としては、フィリピン唯一の聖人に捧げられた“聖ロレンソ・ルイス賛歌"によりもっともよく知られている。また彼は1981年にバレー“目覚め"を、1982年にオーケストラ音楽としてピアノ協奏曲、1983年に“変容1"、そして1987年に“変容2"を室内楽として作曲。 1970年の終わりから、サント・トーマス大学(UST)に於て、USTシンフォニーオーケストラ、UST金管五重奏団、UST吹奏楽団を育て上げ隆盛させた。1990年3月、ベネディクト派修道院長によりマライバライ・ブキグノンの修道院に派遣され、そこで法王ローマ6世典礼研究所の助監督を務めている。 マランバはUST及びデラサッレ大学から著名なアルムニ・アワーズに師事した。彼はベネディクト派修道院のカントルム学校とサンベーダグリークラブのオルガニスト兼合唱指揮者として大いに燃えた。 彼はフィリピンオルガニスト協会の会長で、フィリピン国立音楽協会のメンバーでもある。そしてピアノ教師組合の評議員でフィリピン作曲家連盟のメンバーでもある。 |
台本作者プロフィール |
石多エドワード | |
1947年9月21日 大阪市に生まれる。 父はフィリピンで出生した日本人、母はスペイン系フィリピン人。 1965年3月 大阪府立高津高校卒業。在学中、体操部部長、自治会会長。 1970年3月 武蔵野音楽大学声楽科卒業。在学中、作曲を平井康三郎他に師事。 1976年7月 「東京オペラ協会」の前身、「グループ潮」第1回公演。 以後、現在まで代表・芸術監督として下記の仕事を制作。 |
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◎荒川区、豊島区、新宿区等で市民参加型のオペラ公演を全国に先がけて上演。 |
実行委員会構成図 8月14日現在・申請予定含む |
主 催 |
日比合作オペラ「至福の王者-高山右近」実行委員会 | ||
上 演 |
東京オペラ協会 サント・トーマス大学 | ||
共 催 |
上演地自治体 日比友好祭2003年 | ||
後 援 |
日 本;外務省 文化庁 フィリピン大使館 日比友好議員連盟 国際交流基金 フィリピン;日本大使館 マニラ日本人会 マニラ商工会議所 JICA,ジェトロ マニラ会 |
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助 成 |
国際交流基金・芸術文化振興基金・文化庁2国間文化交流支援事業・万国博覧会基金 他 | ||
協 賛 |
募集中 | ||
代表顧問 |
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ドミンゴ L.シアソン | フィリピン共和国特命全権大使 | ||
役員(顧問・常任委員) |
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白柳 誠一 | カトリック枢機卿 | ||
シアソン和子 | シアソン大使ご夫人 | ||
伊藤 英成、上杉 光弘、遠藤 和良、奥田 建、北村 誠吾、河野 太郎、 後藤田 正純、 坂上 善秀、 | |||
桜田 義孝、 佐藤 昭郎、高野 博師、武見 敬三、 土井たか子、土肥 隆一、 中山 利生、羽田 孜、 | |||
鳩山 邦夫、鳩山 由紀夫、 浜四津 敏子、山花 郁夫、米田 建三 (以上国会議員 50音順) | |||
水 島 総 | 映画監督 | ||
野口 裕哉 | マニラ新聞社 社主 | ||
石多エドワード | 東京オペラ協会 芸術監督 | ||
実行委員 |
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【フィリピン側】 | |||
マヌエル・マランバ | 作曲家/サント・トーマス大学教授 | ||
三木 睦彦 | 比日文化協会会長 | ||
デ・ペドロ | 高山右近研究家/サント・トーマス大学教授 | ||
西 本 至 | 神父・シン枢機卿秘書 | ||
モデスタ・ブクレン | 元マニラ首都圏教育長/石多エドワードの叔母 | ||
安田 紀夫 | マニラ新聞 副社長 | ||
津 坂 明 | 実行委員会マニラ事務局長/サント・トーマス大学高山右近記念教授 | ||
【日本側】 | |||
田村 雅雄・都竹 廣明 | ウィンズ・インターナショナル | ||
シスターレメディオス | カトリック修道女 | ||
小川 秀文 | 東京外国語大学 フィリピン考古学・タガログ語教授 | ||
山下 美知子 | 東京外国語大学 | ||
ヨランダ津田 | 比人 | ||
中 野 聡 | 一橋大学 社会学研究科 助教授 | ||
梅田 裕久 | 高槻・高山右近研究家 | ||
事務局(東京オペラ協会) |
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早 川 亙(顧問)、井戸理恵子(アドバイザー)、野崎 真琴(事務局長)、永井 珠海、鈴木 慶弘 | |||
協 賛 概 要 |
◆ 特 別 協 賛 ◆ 10,000,000円 |
舞台袖に社名を記載(各公演会場) チラシ・パンフレット類に協賛会社名を大きく記載 チラシ・パンフレット類に大きく広告掲載 写真・映像類の版権利用 記者発表時(4月25日)に協賛会社名の社名看板を掲示 招待状の提供 |
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◆ 一 般 協 賛 ◆ 1,000,000円(一口) |
チラシ・パンフレット類に協賛会社名を記載 パンフレットに1ページ全面カラー広告掲載 写真・映像類の版権利用 記者発表時(4月25日)に協賛会社名の社名看板を掲示 招待状の提供 |
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◆ 個 人 協 賛 ◆ 100,000円(一口) |
パンフレットに御芳名を記載 招待状の提供 |
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パンフレット広告掲載要領 |
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A4サイズ36ページ(部分カラー)を全部で10000部以上印刷致します。 東京は3000部、各地では1000部印刷の予定です。 |
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全国共通ページ |
各地方ページ |
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表3全面カラー(裏表紙の裏) |
60万円 |
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1ページ全面カラー |
50万円 |
20万円 |
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1ページ全面 |
30万円 |
12万円 |
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1/2ページ |
15万円 |
6万円 |
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1/4ページ |
8万円 |
3万円 |
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1/8ページ |
4万円 |
2万円 |
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1/16ページ |
2万円 |
1万円 |
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※MO渡しが原則で版下製作が必要な場合は、別料金がかかります。 ※広告をご掲載頂いた場合、招待状の提供がございますので お問い合わせ下さい。 ※協賛・広告ともに3月10日(月)が最終締め切りです。 |
◆公演までのあゆみ 新聞報道から◆ ◆日本公演写真集
By Michiyuki◆ ◆写真集◆